育児の振り返りと告知の可否

大人の発達障害当事者の視点から育児を振り返り、告知があったほうが良かったどうかを考えてみます。

発達障害者の割合

発達障害を持つ方は人口の10%程度いると考えられており、「よくあること」です。発達障害を持ちながら、まったく問題なく日常生活を送られている方もいます。一方で、生きづらさを感じていたり、トラブルを抱えていたりする方もいます。
個人的には10%のうち、気がついてしまうのが5%程度で仕事や社会で行き詰まり発達障害に気がついてしまう感じを受けます。会社でも発達障害の傾向を抱えながらも仕事をしている人もいます。周りが困ったりするだけで、本人が気がつかないだけの場合もあります。
うまくいく人もいれば、行かない人もいるところで、告知するかしないかを躊躇してしまう結果になります。
はたして告知は本人にすべきでしょうか?私やまわりの人を事例を基に持論をまとめたいと思います。
私自身と発達障害の告知
私の告知は突然でした。2009年に会社で上司から「お前、発達障害だから」と一言です。
その後、何をしていいかわからず、会社に行けなくなり、退職致しました。退職後、3か月ほど自宅に引きこもっていました。
その後、ネットでいくら検索しても発達障害で良い話を見つけることができず。さらなる絶望を感じました。
私のように大人になってから発達障害を告知された人はしばらくショックとやっぱりという言葉にできない感情から引きこもってしまう人が多いです。下記に引用した通り、障害と個性は紙一重なんだと思います。

自閉症スペクトラムは「マイペースでこだわりが強い」という個性なのです。それをうまく活かし、社会で大活躍している方も多くいます。しかし、それがうまくいかないと自閉症スペクトラム「障害」という形でさまざまな障害が出てきてしまいます。
私の場合はたまたま障害として会社に認識されてしまいました。会社から否定された気持ちになり、引きこもりへまっしぐらとなりました。
成人前に告知された若者たち
今まで成人前に発達障害を告知された人たちにも会いました。彼らは総じて発達障害を当たり前のものとして受け入れていました。発達障害を前提にした上で人格形成されているので、私より精神的に安定しているようにも見えました。
ただ一部では告知と同時に支援学級に入らされて、支援学級の人たちと同じなんだという感覚で自分は変なんだという自己肯定感が低くなって育った人もいます。若いころの告知は有用だと思いますが、その後支援方法で良くも悪くもなると思われます。
バリアあり?バリアフリー?
告知を受け、すくすく育ってきた若者たちをみて、自分と似ている部分を見ながら、私と違って打たれ弱い部分もみることで、支援が本当に必要だったのかと考えることがあります。支援がないからこそ私は今の自分になれたんだと思います。ただ一方で支援がないから引きこもった私と同世代の人もいます。
一方若者では告知と支援を受けたから、すくすく育った人もいますし、他の人を見ながら、私も他の人同様に変なんだと思い悩む若者もいます。私も変なんだと思い悩む若者はむしろ私のようにある程度支援がなかったほうが伸びるタイプだったかもしれません。

若者たちを見るたびにバリアフリー、支援が行き届く社会ではなく、適切な支援よりちょっと届かないぐらいのほうが伸びるタイプもいるんだなと感じてしまいます。

告知の可否
告知の可否について、「自分の特徴を知ることはいいことです」について私は良いことですと断言できます。小学校、中学校で私だけ出来なかったことについて思い悩んでいたことが障害起因という諦めから他の人と違うから工夫しようと考えるようになります。自分の特徴を知ることで成人になるころには自己受容できることが多いと、成人前に診断された人と話すたびに思います。
ただ、気をつけて欲しいのは告知=支援学級に通わせることではありません。むしろ支援学級に行くことで、周りは変な人が多く、私も変なんだと思いこむ人にあったことがあります。あくまでもその人に必要な支援をしてあげないと逆効果になります。

最後は障害に関わらず、その人をきちんと見ることが重要です。

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