東京でウェルネスとリカバリーをお互いに学ぶ

SAMHSA「リカバリーの作業定義」批判的分析

(当事者・ピアの視点から)

※分析は SAMHSA “Working Definition of Recovery” 本文に基づく


1. この定義の最大の強み

👉「リカバリー=症状消失」という医学モデルを公式に否定した点

SAMHSAの定義が持つ歴史的意義は大きい。

これは、従来の精神医療が切り捨ててきた当事者の語りを、制度文書の中に入れたという点で画期的。

ただし──
この強みは同時に、別の問題を生み出している。


2. 「本人主導(Person-Driven)」という言葉の構造的矛盾

文書は繰り返しこう述べる。

リカバリーは本人主導である
個人がサービスや支援をコントロールする

問題①:「主導できない状況」が前提から消えている

当事者の現実では、

によって、そもそも「主導権を持てない状態」に置かれることが多い。

この定義は
「本人主導であるべきだ」とは言うが、
なぜ本人主導になれなかったのか
誰が主導権を奪ってきたのか
には踏み込まない。

👉 結果として
構造的な抑圧が、個人の課題にすり替えられる危険をはらんでいる。


3. 「責任(Responsibility)」という言葉の危うさ

個人は自身のリカバリーに対する責任を持つ

問題②:責任が“リカバリーできない理由”として回収されやすい

この一文は、制度運用の現場で次のように使われやすい。

当事者の視点では、
これは支援の失敗を個人に返す言語になりうる。

特に、

に「責任」を強調すると、
リカバリー概念が再び懲罰装置になる。

👉 責任を語るなら、
制度・専門職・社会の責任も同じ重さで書かれるべきだが、そこは弱い。


4. 「トラウマに配慮する」と言いながら、

👉 制度が与えたトラウマを扱っていない

サービスはトラウマ・インフォームドであるべき

これは重要だが、決定的な欠落がある。

問題③:医療・福祉・司法が生んだトラウマへの自己言及がない

当事者の多くにとってトラウマは、

によって制度そのものから生まれている

しかしこの文書では、

として描かれ、
現在進行形の制度的トラウマが不可視化されている。

👉 これは
「トラウマに配慮する支援」が
自分自身の加害性を検証しないまま進む危険を示す。


5. 「希望(Hope)」の一元化が生む排除

リカバリーは希望から生まれる

問題④:希望を持てない状態が、リカバリーの外に置かれる

当事者の実感として、

希望は「芽生えるもの」であって
要求されるものではない

この定義では、
希望がリカバリーの「出発点」に置かれ、
絶望・無力感・怒り・拒否といった状態が
リカバリーの語りからこぼれ落ちる。

👉 結果として
「希望を持てない当事者」が再び周縁化される


6. ピアサポートの理想化と搾取のリスク

ピアは不可欠であり、希望を育む

問題⑤:ピアが「資源」として消費される危険

文書はピアの価値を強調するが、

といった現実には触れない。

👉 ピアを制度に組み込むなら、
ピアが守られる構造・拒否できる権利・リカバリーの揺らぎ
同時に明記される必要がある。


7. 決定的に欠けている視点

👉「抵抗」「怒り」「拒否」もリカバリーであるという認識

この文書には、

が一切出てこない。

しかし当事者のリカバリー過程では、

リカバリーの重要な局面であることは多い。

👉 それを含まないリカバリー定義は、
「従順なリカバリー」だけを正当化する危険を持つ。


総合評価(当事者・ピアの視点)

この定義は何か?

一言で言うなら

「リカバリーを語るには十分に優しいが、
リカバリーを妨げてきた力には十分に批判的ではない」


最後に(ピアとして)

もしこの定義を本当に生きたものにするなら、
私はこう付け加えたい。

リカバリーとは、
希望を持てない時期、
従えなかった選択、
怒りや拒否を抱えた自分も含めて、
人として扱われ続けること。

そこまで含んだとき、
この定義は「政策文書」から
当事者の現実に耐えうる言葉になると思う。

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