日本の現場で起きている「リカバリーのずれ」
はじめに
日本でも「リカバリー」「本人主導」「ピアサポート」という言葉は、
行政文書や研修、事業計画の中で当たり前に使われるようになった。
でも現場に立つと、
言葉は同じでも、起きていることがまるで違う場面に何度も出会う。
その違和感を、ひとつずつ言葉にしていく。
1. 「本人主導」が“自己責任”にすり替わるずれ
日本の現場では、
「本人主導」という言葉が、こう翻訳されがちだ。
- 自分で決めて
- 自分で管理して
- うまくいかなかったら自己責任
実際には、
- 使えるサービスは限られている
- 断ると「支援拒否」と記録される
- 生活保護、障害福祉、医療が分断されている
選択肢がほとんどない状態で「自己決定」だけが求められる。
その結果、
「本人主導」は
支援側が関与しすぎないための免罪符になってしまう。
2. 「支援しない支援」が横行するずれ
日本では近年、
- エンパワメント
- 自立支援
- 過干渉しない
といった言葉が強調される。
それ自体は大事だけど、
現場ではこう変質することがある。
- 困っていても「見守りです」
- 追い詰められても「本人の選択です」
- 声を上げても「自分で決めたことでしょう」
本来は関係の中で支えるはずの理念が、
「何もしない正当化」になってしまう。
当事者から見ると、
これは支援ではなく
静かな放置に近い。
3. ピアが「都合のいい存在」になるずれ
日本のピアサポート現場で、特によく起きるずれ。
- 人手不足の穴埋め
- 専門職が言いにくいことを言わせる役
- 当事者の感情処理係
ピアは「対等な関係」と言われながら、
- 決定権はない
- 立場は不安定
- 問題を指摘すると「空気が読めない」とされる
上下関係の中に、ピアが組み込まれている。
しかも、
- つらさを出すと「リカバリーしていない」と見られる
- うまくやると「模範的当事者」に固定される
- 支援者の給料の安い奴隷でしかない。
ピアが
人として揺れることを許されない構造がある。
4. トラウマ・インフォームドが形だけになるずれ
日本でも「トラウマ配慮」という言葉は広まってきた。
でも現場では、
- 強制入院の振り返りはされない
- 過去の支援による傷つきは「仕方なかった」で終わる
- 制度が与えた恐怖は語られない
トラウマは
「家庭」や「過去」に押し込められ、
今この場で起きている力の不均衡は扱われない。
当事者から見ると、
トラウマに配慮すると言いながら
トラウマを生んだ関係性は変わらない
という、強い矛盾が残る。
5. 「リカバリーストーリー」を求められるずれ
日本の現場では、
- つらかった過去
- 支援との出会い
- 前向きな現在
という分かりやすい回復物語が好まれる。
その結果、
- 回復が進んでいない人は語れない
- 怒りや不信は「未消化」とされる
- 「今も苦しい」は歓迎されない
当事者は、
語りたいことではなく、求められる語りをするようになる。
回復が
生き方ではなく、発表用ストーリーになってしまう。
6. 「社会的要因」が個人の課題に押し戻されるずれ
日本の制度では、
- 貧困
- 孤立
- 長時間労働
- 家族依存
- 地域の閉鎖性
といった問題が強く影響している。
それでも現場では、
- スキル不足
- 病識の問題
- モチベーション
と、個人の内側の問題として処理されがち。
結果として、
生きづらい社会に適応できない人
=リカバリーが遅れている人
という見方が、無意識に作られる。
7. 当事者の「拒否」や「距離を取る選択」が尊重されないずれ
日本では特に、
- 支援を断る
- 関係を一度切る
- 距離を取りたい
といった選択が、
- 治療拒否
- 協力的でない
- リスクが高い
と解釈されやすい。
でも当事者の視点では、
それはしばしば
自分を守るための健全な判断だった。
「つながり続けること」だけが正解になり、
離れる自由が回復に含まれていない。
まとめ:日本の現場で起きている本質的なずれ
一言で言うなら、
日本の現場では
リカバリーの言葉は入ったが、
力関係はあまり変わっていない。
- 本人主導と言いながら、選択肢は狭い
- ピアと言いながら、上下関係は残る
- トラウマ配慮と言いながら、制度の責任は問われない
当事者・ピアの立場から言うなら、
リカバリーとは
「よくなること」ではなく、
語り直す力と、拒否する自由を取り戻すこと」
そこが共有されない限り、
日本の現場の「ずれ」は、形を変えて続いてしまう。
私たちが歪んでいるだけだろうか?
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