バウンダリー(境界線)とリミット(限界)
相互責任を維持するための対話ガイド
1. イントロダクション:ピアサポートにおけるバウンダリーの再定義
従来のメンタルヘルス・サービスにおける「バウンダリー(境界線)」は、専門職が一方的に引き、管理する「監視とリスクマネジメントの道具」に過ぎませんでした。そこでのバウンダリーは、専門家という権威を守り、対象者との間に「適切な距離」という名の壁を築くための装置です。しかし、インテンショナル・ピアサポート(IPS)において、私たちはこの臨床的パラダイムを解体し、関係性を「臨床的監視」から奪還しなければなりません。
IPSにおけるバウンダリーの再定義は、ピア関係の質を決定づける戦略的な転換点です。ピアサポートは、単なる「友情」でもなければ、一方的な「サービス関係」でもありません。それは、双方が対等な「ピア」として、「共に学ぶ(Co-Learning)」プロセスに従事するための契約です。ここで、バウンダリーは自分を閉ざすための壁ではなく、双方が誠実に、そして安全に関係性の渦中に留まり続けるための「対等さを維持する装置」として機能します。
私たちが目指すのは、専門家が「正解」を押し付ける世界ではなく、お互いの世界観を尊重し、交渉を通じて新しい関係性を創造することです。そのためには、まず曖昧にされがちな「バウンダリー」と「リミット」という概念を、プロフェッショナルな視点で厳密に整理する必要があります。
2. 概念の構造化:バウンダリー(境界線)とリミット(限界)の峻別
IPSの実践において、バウンダリーとリミットを峻別することは、「相互責任(Mutual Responsibility)」を果たすための第一歩です。この理解の基盤となるのが「家(The House)」のメタファーです。私たちは誰もが自分自身の「家」の中に住んでいます。その家の骨組みやインテリア(価値観や境界感覚)は、育った文化や家族、過去の経験という「世界観」によって装飾されています。
「バウンダリー」とは、この「家」の土台となる強固な空間であり、自己のアイデンティティと安全を守るための基盤です。一方、「リミット」とは、その時々の状況や自身のコンディションによって変動する、より柔軟な「交渉の境界点」を指します。
重要なのは、リミット設定を「相手への拒絶」ではなく、「自分自身とこの関係性を継続するためのケア」と捉える視点です。疲労している時に電話のリミットを設けるのは、関係を断つためではなく、恨みを溜めずに相手と繋がり続けるための、積極的な意思決定なのです。
バウンダリーとリミットの比較表
| 項目 | バウンダリー(境界線) | リミット(限界) |
| 性質 | 世界観に根ざした、自己と他者を分ける基盤的空間 | 状況、文脈、エネルギー量によって変化する境界 |
| 具体例 | 身体的接触、性的関係、プライバシーの根幹 | 電話の頻度、貸し借り、特定の話題、会う時間 |
| 柔軟性の度合い | 比較的強固。個人のアイデンティティを保護する | 高い。状況に応じた「再交渉」を前提とする |
| 目的 | 自己の安全と、健全な対等性の確保 | 自分をケアし、関係性を死滅させないための維持 |
これらの感覚は、私たちが世界をどう認識しているか、すなわち「どこまでが自分で、どこからが他者か」という過去の学びと直結しています。特に、過去に圧倒的な経験をした者にとって、この境界感覚は「生存戦略」としての重みを持ちます。
3. トラウマ世界観がバウンダリーに与える影響
トラウマや暴力の経験は、個人の境界感覚を深く歪めます。幼少期に「ノー」と言うことが暴力に直結すると学んだ人は、大人になっても自分のニーズを主張することに身体的な恐怖を感じます。他者の望みを過剰に察知し、先回りして応えることが生存戦略だった背景を持つ場合、人は自分の直感や本能との接触を失い、「自他境界の喪失」という状態に陥ります。
「自分がどこで始まり、どこで終わるのかを知るのが難しい」という状態は、ピアサポートの現場で「相手の感情への過度な責任感」を引き起こします。相手を救おうと躍起になったり、あるいは誰一人寄せ付けない強固な壁を築いたりする反応は、かつての危険な環境では「正しい生存戦略」でしたが、現在の双方向の関係においては、つながりを断絶させる要因となります。
実践者は、自らのトラウマ世界観が現在の関わりにどう反映されているかを「コ・リフレクション(Co-Reflection)」し続ける必要があります。
実践者のための3つの内省的問い
- 見えること、感じること、必要なことを言うことに、私はどれくらい心地よさを感じているか?
- 人間関係において、私の「ボタン(感情の地雷)」を押すものは何か?
- 「トラウマ世界観」は、私の現在の人間関係にどのような影響を与えているか?
個人の内面を理解した上で、次に直視すべきは、関係性に不可避に存在する「パワー」の力学です。
4. パワーの罠と交渉:ルールから対話への移行
いかなるピア関係にもパワーの移動は存在します。特に、一方が報酬を得ている有給スタッフである場合、目に見えない「権威勾配」が生じます。これを無視することは、IPSが最も忌避する「パワーの乱用」に繋がります。
象徴的なのが「鍵を持っているのは誰か(Key Holder)」という問題です。施設や資源の鍵、あるいは情報の鍵を握っている側は、無意識のうちに境界を「一方的なルール」へと変質させがちです。専門家として「正しい管理」を行うのではなく、そのパワーを「ファーストコンタクト」の時点で名指しし、共有することがパラダイムシフトの要です。
- コンサルタントの助言: 「私は給料をもらってここにいます。その事実が、私にあなたへの権限があるように感じさせるかもしれません。もし私がその立場を利用していると感じたら、どう話せばいいか一緒に考えませんか?」
例えば、アルコールの匂いがする人に対し、「ルール違反だから出入り禁止」と通告するのは単なるパワープレイです。IPSでは、「お酒の匂いがして、私は正直に言って戸惑い、関係を続けることに不安を感じている。ここでのあなたの過ごし方について、一緒に考えられないか?」と交渉のテーブルに乗せます。
譲れない一線(ボトムライン):交渉不可能な領域
いかなる対話モデルにおいても、プロフェッショナルな実践として以下の搾取は厳格に排除されます。
- 性的関係: いかなる場合も認められません。
- 金銭的・労働的搾取: ピアを私的な用事(家の掃除やペンキ塗り等)に従事させる行為。
- 脅迫と強制: 相手の意思を力でねじ伏せる行為。
5. 実践:相互責任を維持するための具体的アプローチ
IPSの中核は「お互いの世話をする(Take care of each other)」のではなく、「関係性をケアする(Take care of the relationship)」ことにあります。従来の支援モデルが「支援者が相手の状態に責任を持つ」という一方通行の支配であったのに対し、IPSは双方が関係性の質に等しく責任を負う「相互責任」を追求します。
ここで最も重要なスキルは、自分の不快感や違和感を隠さず、「自分のものとして認める(Own it / Own your stuff)」ことです。相手を批判して変えようとするのではなく、自分に起きていることを「私の責任」として提示し、相手を「関係性の mess(混乱)」の中へと招待するのです。
反応的(Reactive)な対応と応答的(Responsive)な対応
車での送迎を頻繁に頼まれ、負担を感じているシナリオを例に挙げます。
- 反応的(Reactive)な対応: 表面上は受け入れながら、裏で「あの人は依存的だ」とアセスメント(評価)し、次第に相手を避ける。あるいは「自分でやってくれ」と爆発する。
- 応答的(Responsive)な対応: 「Own your stuff」を実践する。「最近、送迎の依頼が増えていて、正直に言うと私はあなたに対して恨めしさを感じ始めている。私はあなたとの関係を大切にしたいから、この不快感を隠したくない。お互いにとって良い方法を相談できないだろうか?」
この「正直な自己開示」は、相手を一人の責任ある大人として尊重する「人生の実践(Life Practice)」です。不快な会話を避けるのではなく、その渦中に留まり続けることこそが、支援の依存構造を破壊します。
6. 結論:不快感を成長の好機に変える
バウンダリーやリミットをめぐる交渉は、しばしば不快感を伴います。しかし、その不快感こそが、自分たちの「知っていること」を再評価し、変容するための絶好の好機(チャンス)です。不快な場所に留まり、共に探求するプロセスこそが、ピアサポートを単なるサービスから「人生を変える実践」へと昇華させます。
私たちは「問題の解決」から離れ、双方が望む人生、望む関係性へと「〜に向かって進む(Moving Towards)」ことを目的とします。リスクを共有し、新しい関係性を創造することにこそ、プロフェッショナルとしての真の価値があります。
最後に、日々の実践において、あなたが「相互責任」の軌道に乗っているかを確認するためのチェックリストを提示します。

https://drive.google.com/file/d/1AgCb_t03U1Fffag2BU8I_hHCySFu1Nmo/view?usp=sharing
プロフェッショナルな実践のための自己評価チェックリスト
- [ ] 私は「助け」を、相手を変えることではなく、関係性を変えることとして再定義しているか?
- [ ] 私は自分のニーズについて正直であり、不快感を「自分のものとして認めて(Own it)」いるか?
- [ ] 私は自分が持っているパワー(鍵、有給の立場、特権)を自覚し、それを対話のテーブルに乗せているか?
- [ ] 私は「不快感と共に座り」、そこから共に学ぼうとしているか?
- [ ] 私の現在の信念は、私が望む関係性を支持しているか?
- [ ] 私は問題から「離れる」のではなく、望むものに「向かって進む」対話を行っているか?
- [ ] 私はこの関係を、単なる仕事ではなく、自らも変容し続ける「人生の実践」として捉えているか?
コメントを残す