東京でウェルネスとリカバリーをお互いに学ぶ

SAMHSAリカバリー定義への読後感


当事者の視点からの批評

――SAMHSAリカバリー定義を読んで、私が引っかかったこと

1. 全体として感じること

「正しいことは書いてある。でも、体温がない」

この文章を読んでまず感じたのは、
「きれいに整っている」「説明としては申し分ない」
でも同時に、
当事者として生きてきた体の感覚が、どこにも置かれていない
という違和感だった。

これは、
「リカバリーを“支援する側”が理解するための文章」
であって、
「リカバリーのただ中にいる人が、救われる文章」ではない。


2. 「本人主導」と言いながら、前提は制度側にある

リカバリーは本人主導である
自己決定と自己主導が基盤となる

この言葉、当事者なら何度も聞いてきたと思う。

でも、現実はどうだったか。

主導権は、ほとんどの場合こちらにはなかった。

この文章は
「選べることになっている」
「本人が決めることになっている」
という建前を語っているけれど、

本当に「選べなかった経験」
本当に「拒否したら不利益を受けた経験」

には、一切触れていない。

当事者からすると、
「本人主導」という言葉そのものが
制度の免罪符として使われてきた歴史を思い出させる。


3. 「責任」という言葉が、とても危うい

リカバリーには「強みと責任」が伴う
個人は自己管理と自身のリカバリーに対する個人的責任を持つ

ここは、正直に言って、
当事者として一番警戒する部分。

なぜなら、この言葉は何度もこう使われてきたから。

トラウマを抱え、
選択肢が見えない状態に追い込まれていた人に対して、
あとから“責任”だけを返してくる構造が、ここにも見える。

リカバリーが進まないとき、
責められるのはいつも当事者だった。

この文章は、
「責任」という言葉が
再び当事者を追い詰める刃になる可能性を、
まったく自覚していない。


4. 「トラウマ・インフォームド」が言葉で終わっている

トラウマへの配慮
安全性、信頼、選択、エンパワーメント

書いてあることは、正しい。
でも、当事者としては、こう思ってしまう。

それを一番壊してきたのが、誰だったか?

これらは、
制度そのものが生み出してきたトラウマだった。

この文章は
「トラウマに配慮しましょう」と言うけれど、
制度が与えてきた傷への自己批判が欠けている。

当事者から見ると、
「反省なきトラウマ配慮」は
とても空虚に響く。


5. 「希望」が、当事者にとっては重荷になること

リカバリーは希望から生まれる

これも、きれいな言葉だ。

でも、
本当にしんどいとき、
希望は持てない

当事者にとって希望は、
芽生えるものであって、
求められるものではない。

この文章は、
希望を「リカバリーの出発点」として置くことで、
希望を持てない状態そのものを
こぼれ落とす危険を含んでいる。私には見つけられなかった。ほかの先輩が希望と認めるものはね。


6. ピアが「資源」として書かれている違和感

ピアサポートは不可欠
他者を助けることが自分のリカバリーにもつながる

これは半分本当で、半分危ない。

ピアは
制度の不足を埋めるための便利な存在ではない。

当事者の視点では、
ピアが再び搾取される未来も、
この書き方から透けて見える。


7. 一番欠けているもの

「怒り」と「抵抗」の正当性

この文章には、

が、まったく出てこない。

でも当事者にとって、
それらはリカバリーの途中で
必ず通る大事な感情だった。

「おかしい」と感じたこと
「傷つけられた」と声を上げたこと
「従わなかった」こと

それらを
リカバリーの外に置いてしまう定義は、
当事者の現実を削ぎ落としている。


まとめ:当事者として言いたいこと

このSAMHSAの定義は、

でも、

当事者の痛み・怒り・混乱・矛盾を
真正面から引き受ける言葉ではない。

リカバリーは、
こんなに整ったプロセスじゃなかった。

もっとぐちゃぐちゃで、
もっと不格好で、
もっと制度に抵抗するものだった。

当事者の視点から言うなら、
リカバリーは
「支援される物語」ではなく、
「奪われた語りを取り戻す闘い」でもあった。

もしこの定義を使うなら、
私はこう付け加えたい。

リカバリーとは、
希望を持てない自分を責めなくていい場所を
取り戻すことでもある。

それが書かれていない限り、
この文章は
当事者の現実を“きれいにまとめすぎた文書”
であり続けると思う。

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