大人の発達障害当事者会について思うこと

なぜ私は何もしない会を目指すのか?

当事者会をかつて行っていて、私より遥かに優秀な発達障害当事者の方々を見てきました。彼らに教えられることはあってもその逆はありませんでした。
その人たちはコミュニケーションはよくできるし、困りごとは生活面だったり、周りに気を遣いすぎて疲れ果てたりと様々でした。ここが発達障害当事者の困りごとの多様性なのかなと考えています。
当事者会の設計として、何かしようとする当事者会と井戸端会議の当事者会しか私は見ていません。
プレイスには世話人が複数人います、私を平気に見下す人とかね、見下すのはいいのですが(いいのか?)見下しても相手に伝わらないようにできる人がコミュニケーションがよくできる人なんですよね。私みたいな人に見下しているのが伝わるレベルの人にはコミュニケーションを他人に教えられません。
コミュニケーションができないというのが、どういうコミュニケーションができないか把握できているかということですよね、ビジネスコミュニケーションである交渉力がないのか、提案力がないのか、言葉のキャッチボールができないのか、コミュニケーションにもいろいろあるんですよね。
今のプレイスには何があるのでしょうか?

まず私が作ったものは全てプレイスから除去しました。
そのうえで彼ら世話人が何ができるか、それを明日確認したいと考えております。
どんな答えが世話人たちから聞けるでしょうか?
私ぐらいは簡単に乗り越えられる世話人が1人でも現れることを期待しております。
あくまでも私の私見ですが、何かしようとする当事者会と井戸端会議の当事者会があるように思います。
私はあくまでも井戸端会議の当事者会を目指したいと思います。
何かしようとする当事者会で頑張って、その参加した当事者には何が返せるでしょうか?

お金でしょうか?プライドでしょうか?自己満足でしょうか?何かノウハウがあるのでしょうか?
何も提供できないなら、とりあえずは私は井戸端会議の当事者会を開催して、いろんな情報交換や気づきがあればいいのかなと甘い考えをしております。
みんなに聞きたいのはあなたが生きていく場所は当事者会ですか?社会ですか?どこで生きていこうとしていますか?ということです。
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